「毒麦の喩え」と「ひふみふで」


「『照千一隅』と余命さん」の末尾に、マタイによる福音書13章から「毒麦の喩え」を引用、掲載しました。ここで、もう一度引用します。

マタイによる福音書13章より

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」


読者のみなさんはお気づきでしょうが、これは、余命ブログにおいて、余命ブログの読者に混じって読者を装った工作者が紛れ込み投稿していること、そして、そのような工作者たちが敢えて排除されず、投稿を許され続けるであろうことを示唆していました。

余命さんの真意は分かりません。私は直感的に余命さんが、すぐには工作者を排除されないだろうと感じ、この喩えを置きました。今回は、その直感の背後にあるものを探っていきたいと思います。まず、毒麦の喩え話を読み解いていきたいと思います。毒麦というのは、その本体は麦角菌という子嚢菌で、カビやキノコの一部などの仲間です。麦角菌は麦の花に寄生し、その中で胞子を作り出し、蜜を出して昆虫を誘い、胞子を運び出させて、他の花に菌の寄生を広げます。また、毒性のあるアルカロイドを生成し、麦の花の子房が変成した菌核に貯蔵されます。その菌核が、黒い角のように麦の穂から突き出して見えるため、「麦角」と呼ばれました。詳しくは、ウィキペディア「麦角菌」Draconiaweb「麦角中毒」暇は無味無臭の劇薬「『1518年欧州でダンスを踊り続けて死ぬという怪奇現象が起こったらしい』海外の反応」、などをご覧ください。

私は、この喩え話を読んだ時、どうしても腑に落ちないことがありました。それは、「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」というところです。何故、「実ってみると」なのか。いくらよく似ている植物でも、実る前に違うものだと分かりますよね。今度、麦角菌のことを調べてみて、ようやく、この句が理解できました。「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていった」とは、毒麦の本体である麦角菌を蒔いていった、ということだったのです。麦角菌は麦の花が咲いている時でないと、寄生できません。「毒麦」というのは、それまでは良い麦だったものが、開花のときに麦角菌に寄生されることによって「毒麦」に転じ、実ができる時に、ようやく「毒麦」であると分かるのです。

先ほどもお話ししましたように、この麦角菌は他の健全な花にも伝染します。なので、一つでも「毒麦」を発見したら、それを一刻も早く抜き取ることが、被害の拡大を防ぐことになります。僕たちが主人に言ったことは、全くもって正しいのです。しかし、ここでまた腑に落ちないことに、主人はこう言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。たしかに、麦の根は互いに絡まり合っており、「毒麦」を抜く時、良い麦まで抜いてしまうこともあるでしょう。しかし、「毒麦」をそのままにしておけば、他の良い麦も「毒麦」に変化してしまいます。

ここで、注意しなければならないのは、麦というのは、あくまでも比喩であり、それは人間を象徴しているということです。麦に対する処置としては正しいかもしれないことも、人間に対しては正しくないということを、この「腑に落ちなさ」は示しているかもしれません。麦は、麦角菌の胞子に取り付かれてしまったら、最早、為す術がないかもしれませんが、人間は、悪の種子が忍び寄ってきたとき、それを払いのけることができ、もし、取り付かれたとしても、悪が発芽する前に、それを取り除くことができます。「人の子」つまりイエス様は、私が自立した者となり、自ら悪を見分け、悪を退けることを望んでおられる、そういうことなのだと思います。なので、良い麦はただの一つも損なわれることがないよう、「毒麦」もあえて抜かれないのです。

イエス様の御心は、次の喩え話からも窺えます。

マタイによる福音書 18章より

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。


「イエス様が望んでおられるのは『大勢』を救うことではない。イエス様が見ておられるのは私一人であり、あなた一人である。その一人が救われることをお喜びになられる。」こういうことを、この喩え話は教えてくれています。私たちは、自分自身、そして、自分自身の心の重要さをもっと認識し、もっと大切にしなければならないと思います。

自分自身を大切にするとは、自分を悪に売り渡さず、自分の心が、悪に染まらないようにするということです。しかし、悪との闘いは容易ではなく、常に「真実の光」を求め、その光が導くように心を修め、おこなわなければなりません。さらに、その先は、次の言葉が示しているように思います。

ひふみふで 上つ巻(うへつまき)第一帖より

二二(ふじ)は晴れたり、日本晴れ。
神の国のまことの神の力をあらはす代(よ)となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六(しちむつ)かしい御苦労のない代(よ)が来るからみたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
いま一苦労あるが、この苦労は身魂(みたま)をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。
このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤(そろばん)では弾けんことぞ、日本はお土(つち)があかる、外国はお土(つち)がさかる。
都の大洗濯、鄙(ひな)の大洗濯、人のお洗濯。
今度は何(ど)うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。
嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るは神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。
戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。
臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。
己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。
さびしさは人のみか、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。
加実(かみ)が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行(おこない)と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。
神の臣民みな命になる身魂(みたま)、掃除身魂結構。


「みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ」。それは、「神の国のまことの神の力をあらはす代となれる」、「七六(しちむつ)かしい御苦労のない代が来る」為に、そういう代を来たらせる為の働きができるように、また、そういう代に生きるにふさわしい者となる為に、御魂を磨いておけ、誠を通した行いをせよ、ということではないでしょうか。心を魂を洗濯、掃除して綺麗にするのは、自分の為だけでなく、世界を洗濯、掃除して神を迎え、神の国にする為だと言っているのです。

この「日月神示」が真実のものであるのかどうかは、読者の判断にお任せします。とりあえず、日月神示の時節を読むウィキペディア「日月神示」、などをご覧になってみて下さい。

現在は、いままでの世界が、欺瞞に満ちた理念と制度と運営の上に成り立っていたことを暴かれつつあり、根本から変革されなければ、ならなくなっているように見えます。もはや人心が、そのような世界を維持していた、人権、自由、平等、博愛、科学的合理主義、民主主義、資本主義、というような「現代の神話」から離れ、真実を求めて彷徨するようになってきたからです。そのような混乱した時代にあって、宗教家も思想家も政治家も学者も教師も、そのほとんどが愚かで暗く、私たちに真実の道を示すことができずにいます。それならば、真実を外に求めず、自分の心に立ち返って、自分の心に差す真実の光を見つけ、その光の導くところに従って生きるしかないでしょう。そして、自分の光と共鳴しあう人を探し出し、協力していくしかないでしょう。

余命さんの運動に参画する人たちは、そのように共鳴して集まって来たのだと、私は感じています。そして、余命さんは、そのような人たちを纏めていく徳を持った方なのではないでしょうか。


[追記]
この記事の「毒麦の喩え」の解釈は私、独自のものです。クリスチャンの方の解釈は、「毒麦のたとえ」で検索すると出てきますので、興味のある方はご覧になって下さい。ここでは、共観福音書講話「95章 毒麦のたとえ」、をご紹介しておきます。


posted by Tohru Kishii at 07:00Comment(0)日記

青山繁晴さんと私

青山繁晴さんから、メールをいただいたことがあります。まだ、独立総合研究所が出来たばかりの頃だったので2002年、今から14年ほど前のことです。どういう経緯で、メールをいただいたのかというのは、実は、はっきりしません。メールをいただいた時点で、私がそれを忘れてしまっていたからです。ただ、独立総合研究所のホームページを訪問したことは憶えていました。全く偶然に辿り着いたそのサイトは、とても不思議な感じがしました。いきなり、面識のない人の家に上がり込んだような、とでも言えばいいのでしょうか、そんな感じです。多分、日本の国を愛する気持ちと、日本の為に尽くしたいという意志を率直に述べられていて、青山さんが内心をあけすけに、包み隠さず表現されていたからだと思います。そこまでは、辛うじて思い出せました。

ここからは推測ですが、おそらく、青山さんの意気に感じて、簡単な激励の言葉をメッセージとしてメールアドレスと一緒に残したのだと思います。それから多分、二ヶ月か三ヶ月ほど経って青山さんからのメールを受け取ったのですが、その時には、自分のしたことを綺麗さっぱり忘れていたのでした。お返事がいただけるなどとは、微塵も思っていなかったし、メールアドレスを残したのも単に、書き込む欄があったからだったのではないかと。

非常に失礼な話ですが、シンクタンクと言っても自称で、会社の実態はほとんどないのではないかと思っていました。それに、メールをいただくことになった経緯も忘れてしまっていたので、青山さんからメールをいただいたこと自体も、忘却のかなたに消えようとしていました。ものを知らないって、こわいですよね。けれども、テレビにときどき青山さんが出演されているのをお見かけするようになり、独立総合研究所社長という肩書を聞いて、メールを下さったのはこの方だったと知るに至り、辛うじて忘却せずに済んだのです。

今から考えると、超多忙な中、わざわざ時間を割いて、こんな不届きな私にも、お返事を書いて下さっていたわけで、恐縮の極みです。それと同時に、ほんの些細な人の縁でも大切になさる方なのだと思います。

PAPEPOのブログ「130902 迂遠」より

エジプトやシリア情勢が混沌としている。
世界にはたくさんの宗教観があり、政治観などががあるなか、
見事に調和の図れた民族もいれば、紛争ばかりしている民族もいる。

ある民族の一人が、人知れず黙々と善行を積んでいる人があると、
それを知った人は襟を正される。自分もしっかりせねばと、自分で自分を戒める。
やがてその善行は、口から口へ、人から人へと伝わっていく。

結果として、人間としてしてはならないことはしないという、
筋の通った民族が出来上がっていく。

『「迂遠」なようではあるけれども、一からはじめるしかない。
遠回りのようであるけれども、一歩一歩歩むしかないのだ。
だから、倦(う)まず、弛(たゆ)まず、続けていこう』
(安岡正篤)


安岡正篤氏が最も覚悟していた「迂遠」。

安岡氏の信条である

「一澄照隅、万澄照国」

とはそういう意味が込められている。

私たちの周りには、「どうせ私なんて」といった言葉が飛び交っている。
しかし、それは闘いに負けたことを意味している。
敵はもちろん、自分自身だ。
「心中の賊は山中の賊より難し」(王陽明)という言葉もある。

「一隅を照らそうと決意した者がまずやらなければならないことは、
この内なる無力感と闘うことだ。これと闘い、克服して、
自分の持ち場や責任分担において、一隅を照らすようになったとき、
引き上げられて、より広い範囲で、より多くの人と共に仕事をするようになる。

しかし、すべての始まりは、自分の足下の責任分担から始まるのだ。」
(安岡正篤)


今、青山さんは、私にとっての「光」です。青山さんを見て、人の縁を大切にしていなかった自分を愧じましたし、内心に日本を愛する心があっても、それを堂々と外に出せない弱さを愧じました。「人知れず黙々と善行を積んでいる人があると、それを知った人は襟を正される。自分もしっかりせねばと、自分で自分を戒める。」まさに、その通りです。

そんな青山さんと余命さんが、なんと、今年5月に激突かという事態になりました。大変なことではあるのですが、私は内心ワクワクしていました。お二人とも、人を表面的にではなく、その心根、根本を見る方ですし、対立するにしても、きっと出会いがあり、そこで何かが創造されるのではないかと思ったからです。残念ながら、お二人ともご多忙で、対立どころではなかったのですけれど。

底意を持って、コソコソと余命ブログへの投稿で工作を続ける不埒な輩に、お二人を操り、激突させることなど出来はしません。ただ、一時でも、お二人の心を煩わせたことは、怒りを禁じえません。

話をPAPEPOさんの「迂遠」に戻します。

「ある民族の一人が、人知れず黙々と善行を積んでいる人があると、
それを知った人は襟を正される。自分もしっかりせねばと、自分で自分を戒める。
やがてその善行は、口から口へ、人から人へと伝わっていく。

結果として、人間としてしてはならないことはしないという、
筋の通った民族が出来上がっていく。」


残念ながら、それがすぐに出来るのは、日本人だけだと思います。これから日本人が世界に貢献できるとしたら「一燈照隅、万燈照国」の生き方を世界に広めることによってかもしれません。それは、思想ではなく生き方であり、人としてのあり方そのものです。それ故に、今後、ますます混迷する世界の中にあって、日本が先頭をきって調和と秩序をつくり、繁栄する姿を世界に示すことにより、それを範として、世界が調和と秩序を取り戻し、繁栄していくことになるでしょう。そういう日本の世界への貢献も見据えて、青山さんも、余命さんも動いておられると思います。
posted by Tohru Kishii at 18:00Comment(0)日記

十七条憲法と余命さん

前回、「『照千一隅』と余命さん」の中で、「ぱよぱよ日記 『余命船団と余命教団』」から、真・カミカゼさんの言葉を引用し、その言葉を受け止めて、反省したとお話しました。前回、触れなかったその内容について、今回、お話したいと思います。

まずは、もう一度、真・カミカゼさんの言葉を引用します。

ぱよぱよ日記 「余命船団と余命教団」より
真・カミカゼさん 2016年3月6日 耄碌余命爺に反日認定されました

まとめの内容

余命爺の「余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」
この文は特に気をつけて読む必要がある。
なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。
少なくても、絶対に文字通りに捉えてはいけない。
そもそも、なぜ、誰もこの文を変に思わない?ネトウヨのレベルは低すぎる。

余命三年ブログも問題をだいぶ抱えている。
そろそろ軌道修正しないと大変なことになりそう。

プロ右翼とでもいうべきか、自分の商売のためにネトウヨをやっている人に注意。
こういう人たちは日本のためより自分の財布のために活動している。釣られたら負け。

とにかく自分の頭で考えろ。
余命ブログを盲信とか、保守論客の狂信者になるとか、もってのほか。

個人用魚拓としてEvernoteはいいかもしれないが、
誰でも見れるWeb魚拓として http://archive.is/ を選択肢として考慮してほしい。


…中略…

ただ、これを見てどのように受け取るかというのは重要なわけで、この程度の内容で発狂するのであれば、余命ファンサイトを運営している自分としては危機感を抱かないといけないわけです。余命コメント欄の問題点について、以前から主張してましたし、余命ファンサイトとして最有力サイトである春、不遠。~はるとおからじ~さんの一件からしても、余命サイトの狂気(コメント欄)によって、余命が振り回されてしまったことについて警笛は鳴らしてきました。余命コメント欄の危険性を指摘している自分が反日かというのと言ってるのと一緒だと思います。少々荒っぽいけど、真・カミカゼの主張というのもね(笑)


「余命三年ブログも問題をだいぶ抱かえている。」以下は、真・カミカゼさんの見解なので別に考えるとして、反省するべき言葉は、「余命爺の…この文は特に気をつけて読む必要がある。なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。少なくても、絶対に文字通り捉えてはいけない。」になります。虚心坦懐に余命さんの言葉に向き合ってみることにしましょう。

余命三年時事日記 「486 2016年3月3日時事」より抜粋

山中英雄
縄田 への返信
縄田さんへ
 小生は初代余命かず先生時代から余命ブログを拝読し、その主張に全面的に賛同しているが、最近の安倍さん万歳の記事やコメントには多少違和感がある場合がある。

…中略…

余命ブログ読者は安倍さん万歳の記事やコメントばかりでは井の中の蛙になりやすく、現実の切実な問題も知るべきではないだろうかと思いコメント投稿しているが、多少違う意見の交換は健全なブログのありかたではないかと思っています。
 しかし、~平然と無視して投稿を続けるご自身の無神経な態度を少しは省みてはいかがだろう~は、上から目線の貴殿の人格を疑う無礼な発言だね。

.....山中氏はどうも余命ブログを誤解なさっているようだ。
余命は不偏不党公平中立非営利の個人ブログであるが、そのベースは「日本人と日本国のためによかれ」というところにある。在日や反日勢力を含めての絶対普遍的な公平中立なブログではない。
 また余命は立ち上げから覚醒、拡散は事実の提示と説明に徹してきた。そこに主義主張は存在しない。「日本人に広く事実を知ってもらう」それだけを目的としてきたのである。
 したがって余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。
安倍総理がどうのこうのは余命には関係のないことだ。誰であれ日本のために頑張るものは手をつなぎ応援する。

…中略…

 山中氏については10をこえる批判記事が投稿されており、すべて削除している。すでに縄田氏の投稿の際にはこの件についてスタッフ一同で削除検討されていたのである。
 よって今後の論争を避けるため今回の投稿をもって削除対象とすることに決定したのでお知らせする。


素直に考えれば、余名さんの「したがって余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」という言葉は、問題があると言わざるをえません。これは十七条憲法の次の二つの条文に反すると思われます。

 第一条「一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。しかれども、上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。(一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。)
 
 第十条「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。(十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。)

 
いきなり十七条の憲法を出してきてなんだ、と思われたかもしれませんが、その条文は、時代を経て受け継がれ、日本人の精神の基礎を成していると思うので、それに照らして、考えたかったのです。

さて、それでは余命さんが一方的に悪いのでしょうか。第十条に「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。(自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。)」とあるので、余命さんと山中さんは、お互い様ということになります。しかし、「われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。(自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。)」とありますから、余命ブログという余命さんに賛同する人たちが集まるところでは、他の読者さんの勧告に従って投稿スタイルを変えるか、黙って立ち去るべきだったのでしょう。

山中さんの「しかし、~平然と無視して投稿を続けるご自身の無神経な態度を少しは省みてはいかがだろう~は、上から目線の貴殿の人格を疑う無礼な発言だね。」という縄田さんに対するお言葉は、第十条の「かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。(相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。)」という言葉に照らして見て、やはり道に適っていないように思われます。そういう言葉を発する心が、第一条にある「人みな党あり、また達れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。(人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。)」という状態を作り出してしまうからです。そのような山中さんのあり方が、日本再生と日本を日本人の手に取り戻すための実践プログとしての余命ブログにとって障害となるが故に、余命さんの「したがって余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」という宣告になったものと思います。この言葉を私なりに意訳すれば「ここに集う人たちと心を合わせて、日本再生と日本を日本人の手に取り戻すための実践をする気がないのなら、ここにあなたが居ることは、日本再生運動の障害でしかなく、それは反日行為と同じだ。」ということになると思います。

余命さんのブログ運営のあり方は、完全ではないにしても、決して道から外れていません。
第一条にある「上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。(皆が協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。)」を体現しつつあるのではないでしょうか。以上が余命さんの言葉に、虚心坦懐に向き合って得た結論です。

これを踏まえて、再び、真・カミカゼさんの言葉に戻ってみます。

「この文は特に気をつけて読む必要がある。なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。少なくても、絶対に文字通りに捉えてはいけない。そもそも、なぜ、誰もこの文を変に思わない?」

確かに「なんらかの意図」は、ありました。余命ブログによる日本再生運動に障害となるものを、払い除けようという意図が。余命さんの「余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」という言葉を、文脈から切り離して「文字通り」捉えると、カルトの教条のような意味にもなってしまいます。余命の記事に違和感を感じたり批判したりする者は殲滅すべき敵である、というような。しかし、余命ブログの読者で、余命さんの言葉をそんな風に捉えた人はいないでしょう。みなさん、文脈を読んで、余命さんの意図を汲みとっていると思います。山中さんのことを「反日」と言っているわけではなく、ただ、山中さんが余命ブログとの関わり方を変えて下さるか、関わりを持たない様にして下されば、いいだけなのです。

率直に言って、「ただ、これ(真・カミカゼさんの文章)を見てどのように受け取るかというのは重要なわけで」というぱよぱよ日記筆者さんの言葉には同意できません。何故なら、そこにあるのは「惑わし」だけだからです。私はあえて、真・カミカゼさんの言葉を受け止めて、人道に照らして、余命さんの言葉をどう受け止めるべきかを反省してみましたが、結果として、直感的に理解したことと一致しました。ならば、大多数の余命ブログ読者さんのように、真・カミカゼさんの言葉には一顧だにせず、自分の直感を信じて余命さんについていく方が賢明というものです。釣り針に自分から食いついていく必要は、ないのですから。しかし、そもそも、何故、余命ファンサイトと称する『ぱよぱよ日記』が、余命ブログ読者を釣り上げる釣り針を、仕込まなければならないのでしょうか。

然るべき時に自分に立ち返り、反省し、自分を見つめなおすことは、とても大切なことです。そして、その地点から自分の「外側」を見つめ直し、整理、評価することも。反省が正しく行われれば、周囲との調和はより発展し、深まります。それは、人の心に猜疑を吹き込み、人の和に亀裂を生じさせ、人の繋りの発展を阻害する「個人の恣意的な事物の解釈」とは真逆なものです。

ここでは、十七条憲法の一部しか紹介しませんでしたが、すべての条文が現在でも意義を失っておらず、私の心に響いてきます。もし、これまでのこの記事をお読みになって、十七条憲法のすべての条文を読んでみたいと思われるなら、「小名木善行 ねずさんの ひとりごと『いまあらためて十七条憲法を読む』」をお勧めします。



posted by Tohru Kishii at 18:00Comment(0)日記

「照千一隅」と余命さん

儒教の経典である、四書五経のうちの『書経』からとった書き下し文が、当ブログ「古典」のカテゴリーにあるのを、お気づきの読者もおられるでしょう。それらの記事を載せているのは、その『書経』からとった文言のうちに、不易の「千里を照らす光」があると私が感じているからですが、その他にも日本人の生き方と相響きあう不易、不滅の光を感じさせる言葉があります。順次、掲載していこうと思っています。

「照千一隅」は伝教大師のお言葉なのに、なぜ儒教の経典なの、と思われる方がおられると思います。私は、特に儒教に拘りがあるわけではありません。その他の聖典、経典、思想・哲学の書の中にも導きの光を感じます。では、それらの光は、夜空の星々のように、あちこちに、ちりばめられているのか、というと、そうは感じていません。各々違うものではありますが、同一方向から来ているように感じるのです。あくまでも、私の感覚では、ですが。

それで、なぜ儒教の経典なのか、という問いですが、最初の方に書いたように、日本人の生き方を考えていて、それに響きあうものが、そこにあったからです。そして、こちらの方がもっと大きな理由なのですが、それは、日本独自の、日本人の誰もが認める天道、人道を教える経典がないからです。

基本的に、日本は「言挙げせぬ国」です。言挙げについては、次の引用をご覧下さい。

万葉神事語辞典より

ことあげ
言挙げ

神の意志に背いて特別に取り立てて述べること。言挙げに誤りがあると、命を失うことにもなるので、タブーとして慎まれていた。万葉集には「千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とぞ思ふ」(6-972)のように、千万の敵だとしても言挙げをせずに退治するのだという。また「秋津島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国 然れども 我は言挙げす」(13-3250)のように、我が国は言挙げをしない国だが、恋の苦しさのためにその思いを特別に述べるのだという。同じ歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする」(13-3253)ともある。「言挙げ」というのは、個人が個人の意志を明白にする態度であるに違いなく、それを慎むというのは、それが神の態度を越えるからであろう。言挙げをするのは、神のみに許された行為なのである。神の意志を受けて行動するのが古代日本人の態度であり、言挙げは神の意志を越えたり、神の意志に背くことになるのである。記でヤマトタケルの命がイブキ山の神の出現に対して、それを神の使いだと見誤り素手でやっつけてやろうと言挙げをしたことにより命を落とす結果となった。個人の自己主張は慎むべきであり、個人の主張は神により承認された言葉において可能であったのである。そうした神の意志は、個人を越えて国のあり方におよぶものであるゆえに、言挙げは慎むべきものであったのである。


それゆえにか、神道に人の生き方を説く経典などはありません。「説く」というのは、人が説くのであって、普遍的な人道を説くとなると、どうしても僭越になってしまいますから。神道については、次の引用をご覧下さい。

宮司の論文 「神道」は宗教ではありません。より抜粋

「神道」は宗教ではありません。先ず、宗教とは、読んで字の如く「のを宗とする」ものです。従って宗教には必ず教える人と教えられる人と材料があります。
キリスト教で言えば、教える人イエス・キリスト、教える材料は「旧約聖書」・「新約聖書」であり、教えられる人はキリスト教徒です。仏教では、教える人お釈迦様、教える材料は「仏典」・「経典」であり、教えられる人は仏教徒です。イスラム教で言えば、教える人マホメットあるいはモハムド、教える材料「コーラン」であり、教えられる人はイスラム教徒です。

そして、これらの教える人は、私たちのような一般人ではなく、いわゆる神さまに近い聖人のようなお方です。また人間として私たち同様に、地球上に生を受けた人なのです。ここが神道と根本的に異なることに留意すべきです。

神道には、教える人もいなければ、教える材料もないのです。誰が教えたという人はいません。また教える材料もありません。祝詞はありますが、祝詞は私たちが祈願をし、感謝を述べるものであって、教える材料などではありません。
神道の特徴をまとめてみます。

①教祖がいない。
他宗教と異なり、自然発生的に成立した神道には、教祖がいないのです。

②教典がない。
教義を記した教典、教本が神道にはありません。神道では祭祀、儀礼を重視します。教典については「古事記」・「日本書紀」を挙げて反論する人もいますが、それらは歴史書であり、神道の教義教典に属するものは書かれていません。

③布教活動をしない。
神社宮司の私は信者獲得の為に、神道への宗教的勧誘や布教活動を一切したことがありません。鶴見神社の氏子のほとんどが仏教徒です。それでも千年の歴史を持つ鶴見神社で布教活動をした宮司は誰一人おりません。


日本に独自の天道、人道を説く経典はありません。では、日本人の心は暗かったのか、と言えば、そんなことはありません。日々、心を磨き、他者や山川草木との交わりから学び、相和し、お天道さまに愧じることのない生き方のできる人、そういう人すべてが、心に光を持っています。

「一燈照隅 万燈照国」。一人の光は、例えば、親なら子の導きの光となり、村の長なら村人の導きの光となり、というようにして各々が「一隅」を照します。そして、「照千一隅」の人の放つ光が、それら各々の光を放つ人々の導きの光となって、遍く国を照らすのです。

このことが指し示すのは、日本の導きの光とは、経典の言葉ではなく、人である、ということでしょう。しかも、それは、一人ではなく、心あるすべての人です。ここで、私は余命さんのことを思わざるを得ないのです。余命ファン、サポーターにとって、余命さんは導きの光です。そして、その光は思想によるのではなく、実践によるものなのです。余命さんの意図は次の引用で明らかです。

余命三年時事日記 「88余命1年時事日記」 より

この余命3年時事日記ブログは2010年に韓国、中国に対する日本人覚醒プロジェクトとして日本の将来に危機感を持った学生諸君が始めたネット活動の唯一の生き残りだ。数百人の学生諸君の立ち上げたホームページや個人ブログの発信はありとあらゆる手段で妨害されつぶされた。

…中略…

この数字をみていると涙が出てくる。今後どんどん増えていく日本人の力は大きいぞ。小生は事実を淡々と記述しているだけだが、このブログは嫌韓ブログと分類されているらしい。いずれにしてもこれだけ大きくなると在日朝鮮人か韓国人組織かは知らないが、必死に遮断にくることは間違いない。そこで舞台は変わり皆さんの出番となる。彼らは日本人にすべてが知られてしまうと生活と命に即関わるのであるから必死だ。ネット上の力関係はまだまだ彼らの方が強い。継続した情報発信が絶対的に必要だ。そういう意味で冒頭、参考資料として使えるようブログの保存をお願いしたのである。人類史上日本人の民度は超超レベルである。この足を引っぱっているのが中国、韓国だ。その元凶をできるだけ早く取り除き、世界平和と人類への貢献をめざして諸君には奮闘していただきたい。


『余命三年時事日記』は、日本再生と日本を日本人の手に取り戻すために始められました。これが思想を語るブログではなく、明確な目的を持った、実践的なブログであることは、このブログの読者のみなさんがご存知のことです。さらに、次の引用をご覧下さい。

余命三年時事日記 「92余命0年時事日記」 より

いよいよ皆さんの出番となった。
今年初頭から家系の隠れ持病、神経を患った。慢性神経疲労、神経障害、慢性神経疲労、狭心症で倒れ4度入院。今月は慢性神経疲労で倒れた。気がついたのは3日後、今回は視神経もダメだ。意識障害もたびたびなので今のうちにけじめのご挨拶をしておきたい。
とりあえず下書き出稿予定の記事をアップさせた。この稿は口述アップの最終稿である。
記事については半端となったが前を向いて走っていればこんな倒れ方だ。お許し願いたい。
これが自分の生き様、納得しているし、悔いはない。

…中略…

日本再生にはまだ道半ばである。日本を貶めようとしている勢力の力はまだまだ強い。皆さんのご奮闘を心からお願いするものである。

最後に皆さんとそのご家族及び日本人すべてのご健康とご多幸を祈念しつつ筆を置く。


初代余命さん、かず先生の人柄、信念と覚悟が見える文章です。闘いの道半ばで倒れられたかず先生は、私たちに「中国、韓国という元凶をできるだけ早く取り除き、世界平和と人類への貢献をめざして諸君には奮闘していただきたい。」という道を示されました。そして、その道は、代々の余命さん、余命プロジェクトチームのみなさんが受け継ぎ、より一層、力強く前へ前へと進まれています。また、私たちもその後姿に導かれて、それぞれの力に応じて余命さんをサポートし、周囲への拡散に努めています。それは国のためであり、私たち一人一人の周囲の人々のためであり、私たち一人一人の家族のためであり、そして、私たち一人一人自身のためです。

そのような余命さんと、余命ファン・サポーターのあり方に批判的な見方があります。以下に紹介します。

ぱよぱよ日記 「余命船団と余命教団」 より抜粋

真・カミカゼさん 2016年3月6日 耄碌余命爺に反日認定されました

まとめの内容

余命爺の「余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」
この文は特に気をつけて読む必要がある。
なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。
少なくても、絶対に文字通りに捉えてはいけない。
そもそも、なぜ、誰もこの文を変に思わない?ネトウヨのレベルは低すぎる。

余命三年ブログも問題をだいぶ抱えている。
そろそろ軌道修正しないと大変なことになりそう。

プロ右翼とでもいうべきか、自分の商売のためにネトウヨをやっている人に注意。
こういう人たちは日本のためより自分の財布のために活動している。釣られたら負け。

とにかく自分の頭で考えろ。
余命ブログを盲信とか、保守論客の狂信者になるとか、もってのほか。

個人用魚拓としてEvernoteはいいかもしれないが、
誰でも見れるWeb魚拓として http://archive.is/ を選択肢として考慮してほしい。


…中略…

ただ、これを見てどのように受け取るかというのは重要なわけで、この程度の内容で発狂するのであれば、余命ファンサイトを運営している自分としては危機感を抱かないといけないわけです。余命コメント欄の問題点について、以前から主張してましたし、余命ファンサイトとして最有力サイトである春、不遠。~はるとおからじ~さんの一件からしても、余命サイトの狂気(コメント欄)によって、余命が振り回されてしまったことについて警笛は鳴らしてきました。余命コメント欄の危険性を指摘している自分が反日かというのと言ってるのと一緒だと思います。少々荒っぽいけど、真・カミカゼの主張というのもね(笑)

余命三年時事日記の記事というのは、出すタイミングは考慮しているわけで、最終的に、実は・・・といった感じで帰結するパターンは少なくない。ここらへんの行間を読める余命読者が大半と思います。「バカとスパイ9:1の法則」の通り、スパイが紛れ込んでたら、そっちの声のほうが取り上げられないし、余命船団ではなく、余命教団になりかねないといった懸念は抱いてます。余命船団の航海ではなく、余命教団の後悔だと本末転倒だしなぁwwwあくまで、余命に投稿するというのは、コメント処理に手間をかけるわけで、威力業務妨害??になりかねないという一面もあるわけで、余命のコメントの処理についてコメントしている部分もあるけど、どちらかといえば、肯定的な意見より、否定的な意見を述べてる印象はあると思うのは気のせいなのかな??

巷間アラカルトシリーズで、『国家総動員の為には極左のみならず極右も切らねばならない』とは三島由紀夫の言葉も取り上げてたし、保守分断の動きについては余命も冷静に見極めてるると思います。449 警告!のエントリの意味については、各自で考えて欲しいと思います。余命教団になって欲しくないし、チャンネル桜と水島総=余命三年時事日記と余命コメントという図式になりかねない危険性も孕んでるわけで、余命ファンサイトとして取り上げるべきと思いました。


この引用中にある 「余命爺の『余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。』」は、「余命三年時事日記 『486 2016年3月3日時事』」より、引用されたものです。私としては、この余命さんの言葉に違和感を感じませんでした。党派を越えた日本再生のための実践的ブログに、政治的、党派的な争いを持ち込むのは、余命プロジェクトへの妨害にしかならず、強い言葉で振り払うのが当然だからです。私の知る限り、この余命さんの言葉を問題視して取り上げたのは、余命ファンサイトの中で『ぱよぱよ日記』だけでした。ほとんどの方が私と同じ気持ちだったのだろうと思います。

とはいえ、自らの歩む道が正しいかどうか、反省するのは必要なことです。私も、この記事を受け止め、反省し、また、この筆者さんの言い分を検証してみました。その結果として、私の歩んでいる道に誤りはなく、批判は的を射ていない、と改めて思いました。

引用中にある「不遠。~はるとおからじ~さんの一件からしても、余命サイトの狂気(コメント欄)によって、余命が振り回されてしまったこと」については、投稿者さんの文言を余命さんが誤解したことによって生じた齟齬であり、後に誤解がとけて、円満に解決しており、「狂気」という表現は全くあたりません。以前の記事でも問題にしましたが、この方はどうしてこうも、余命読者さんを侮辱するのでしょうか。この件に関わった方々は、いずれの方も自分の非は非として認め謝罪なさる、真っ当な方たちばかりです。

「ここらへんの行間を読める余命読者が大半と思います。『バカとスパイ9:1の法則』の通り、スパイが紛れ込んでたら、そっちの声のほうが取り上げられない」については、余命ブログにスパイが紛れ込んでいるのは、時折、余命さんが本稿中で誰がスパイなのか、それとなく示しておられることからも、事実でしょう。それは、余命さんが誰がスパイなのか見抜いておられるということでもあり、この筆者が心配するような事態にはならないのではないでしょうか。「余命コメント欄の問題点」は、ほとんどが、スパイ、工作員の仕掛けであると思われ、余命ブログ読者としても彼らに踊らされ、誘導され、利用されることがないよう注意が必要です。

これからも、余命ブログとその読者について、盲信、狂信などの印象操作、カルトというレッテル貼りが続くものと思いますが、自分自身の中の光を絶やさず、それが共鳴する余命さんの光を見失わなければ、惑わされることはないでしょう。

最後に次の引用をもって、この稿を終わりたいと思います。

マタイによる福音書第13章より

「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。



posted by Tohru Kishii at 18:00Comment(0)日記

ブログ名の意味と今後の『照千一隅』について

改めまして、本ブログの筆者、Tohru Kishii でございます。
本ブログにお越しいただき、ありがとうございます。本ブログも節目を迎えておりますので、この機会に、これまでの本ブログについてのご説明と、これからの本ブログのあり方についてお知らせいたします。

いままでは、交流のある方と記事を読んでいただきたいと思った方にのみ、このブログのことをお知らせしていました。私信の延長線上のような使い方だったのですが、手違いでブログのアドレスを、不特定多数のかたに公開してしまいました。

この機会に、本当の意味での公開ブログに転換していこうと思います。私は余命ファンであり、余命サポーターで、このブログでも度々、余命ブログや余命プロジェクトについて取り上げてきました。けれども、それらは私的な覚書、忘備録、知人への伝言という性格のもので、必ずしも不特定多数の方への公開を、考慮したものではありませんでした。とはいえ、想定外の方がご覧になる可能性が全くないわけではないので、表現の配慮はしております。それゆえ、どなたに見ていただいても何ら支障はなく、このまま残しておくつもりです。

公開ブログとしての『照千一隅』は、余命ファンブログとはしないつもりです。扱う話題は、歴史、思想、哲学、宗教などで、時に時事もと予定しています。更新は週に一回程度になると思います。

「照千一隅」は、真理よりは千里ほどの遠い彼方にいる私を照らし導く燈火という、私なりの思いを込めた標題です。ここで言う「一隅」とは角を固め基準となるもの、という意味と解釈しています。揺るぎない基準を固め、私を導く光、それを私なりに表現するブログ、そのような意味の標題です。

私自身については、「一燈照隅 万燈照国」の一燈となれればと願っております。