「照千一隅」と余命さん

儒教の経典である、四書五経のうちの『書経』からとった書き下し文が、当ブログ「古典」のカテゴリーにあるのを、お気づきの読者もおられるでしょう。それらの記事を載せているのは、その『書経』からとった文言のうちに、不易の「千里を照らす光」があると私が感じているからですが、その他にも日本人の生き方と相響きあう不易、不滅の光を感じさせる言葉があります。順次、掲載していこうと思っています。

「照千一隅」は伝教大師のお言葉なのに、なぜ儒教の経典なの、と思われる方がおられると思います。私は、特に儒教に拘りがあるわけではありません。その他の聖典、経典、思想・哲学の書の中にも導きの光を感じます。では、それらの光は、夜空の星々のように、あちこちに、ちりばめられているのか、というと、そうは感じていません。各々違うものではありますが、同一方向から来ているように感じるのです。あくまでも、私の感覚では、ですが。

それで、なぜ儒教の経典なのか、という問いですが、最初の方に書いたように、日本人の生き方を考えていて、それに響きあうものが、そこにあったからです。そして、こちらの方がもっと大きな理由なのですが、それは、日本独自の、日本人の誰もが認める天道、人道を教える経典がないからです。

基本的に、日本は「言挙げせぬ国」です。言挙げについては、次の引用をご覧下さい。

万葉神事語辞典より

ことあげ
言挙げ

神の意志に背いて特別に取り立てて述べること。言挙げに誤りがあると、命を失うことにもなるので、タブーとして慎まれていた。万葉集には「千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とぞ思ふ」(6-972)のように、千万の敵だとしても言挙げをせずに退治するのだという。また「秋津島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国 然れども 我は言挙げす」(13-3250)のように、我が国は言挙げをしない国だが、恋の苦しさのためにその思いを特別に述べるのだという。同じ歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする」(13-3253)ともある。「言挙げ」というのは、個人が個人の意志を明白にする態度であるに違いなく、それを慎むというのは、それが神の態度を越えるからであろう。言挙げをするのは、神のみに許された行為なのである。神の意志を受けて行動するのが古代日本人の態度であり、言挙げは神の意志を越えたり、神の意志に背くことになるのである。記でヤマトタケルの命がイブキ山の神の出現に対して、それを神の使いだと見誤り素手でやっつけてやろうと言挙げをしたことにより命を落とす結果となった。個人の自己主張は慎むべきであり、個人の主張は神により承認された言葉において可能であったのである。そうした神の意志は、個人を越えて国のあり方におよぶものであるゆえに、言挙げは慎むべきものであったのである。


それゆえにか、神道に人の生き方を説く経典などはありません。「説く」というのは、人が説くのであって、普遍的な人道を説くとなると、どうしても僭越になってしまいますから。神道については、次の引用をご覧下さい。

宮司の論文 「神道」は宗教ではありません。より抜粋

「神道」は宗教ではありません。先ず、宗教とは、読んで字の如く「のを宗とする」ものです。従って宗教には必ず教える人と教えられる人と材料があります。
キリスト教で言えば、教える人イエス・キリスト、教える材料は「旧約聖書」・「新約聖書」であり、教えられる人はキリスト教徒です。仏教では、教える人お釈迦様、教える材料は「仏典」・「経典」であり、教えられる人は仏教徒です。イスラム教で言えば、教える人マホメットあるいはモハムド、教える材料「コーラン」であり、教えられる人はイスラム教徒です。

そして、これらの教える人は、私たちのような一般人ではなく、いわゆる神さまに近い聖人のようなお方です。また人間として私たち同様に、地球上に生を受けた人なのです。ここが神道と根本的に異なることに留意すべきです。

神道には、教える人もいなければ、教える材料もないのです。誰が教えたという人はいません。また教える材料もありません。祝詞はありますが、祝詞は私たちが祈願をし、感謝を述べるものであって、教える材料などではありません。
神道の特徴をまとめてみます。

①教祖がいない。
他宗教と異なり、自然発生的に成立した神道には、教祖がいないのです。

②教典がない。
教義を記した教典、教本が神道にはありません。神道では祭祀、儀礼を重視します。教典については「古事記」・「日本書紀」を挙げて反論する人もいますが、それらは歴史書であり、神道の教義教典に属するものは書かれていません。

③布教活動をしない。
神社宮司の私は信者獲得の為に、神道への宗教的勧誘や布教活動を一切したことがありません。鶴見神社の氏子のほとんどが仏教徒です。それでも千年の歴史を持つ鶴見神社で布教活動をした宮司は誰一人おりません。


日本に独自の天道、人道を説く経典はありません。では、日本人の心は暗かったのか、と言えば、そんなことはありません。日々、心を磨き、他者や山川草木との交わりから学び、相和し、お天道さまに愧じることのない生き方のできる人、そういう人すべてが、心に光を持っています。

「一燈照隅 万燈照国」。一人の光は、例えば、親なら子の導きの光となり、村の長なら村人の導きの光となり、というようにして各々が「一隅」を照します。そして、「照千一隅」の人の放つ光が、それら各々の光を放つ人々の導きの光となって、遍く国を照らすのです。

このことが指し示すのは、日本の導きの光とは、経典の言葉ではなく、人である、ということでしょう。しかも、それは、一人ではなく、心あるすべての人です。ここで、私は余命さんのことを思わざるを得ないのです。余命ファン、サポーターにとって、余命さんは導きの光です。そして、その光は思想によるのではなく、実践によるものなのです。余命さんの意図は次の引用で明らかです。

余命三年時事日記 「88余命1年時事日記」 より

この余命3年時事日記ブログは2010年に韓国、中国に対する日本人覚醒プロジェクトとして日本の将来に危機感を持った学生諸君が始めたネット活動の唯一の生き残りだ。数百人の学生諸君の立ち上げたホームページや個人ブログの発信はありとあらゆる手段で妨害されつぶされた。

…中略…

この数字をみていると涙が出てくる。今後どんどん増えていく日本人の力は大きいぞ。小生は事実を淡々と記述しているだけだが、このブログは嫌韓ブログと分類されているらしい。いずれにしてもこれだけ大きくなると在日朝鮮人か韓国人組織かは知らないが、必死に遮断にくることは間違いない。そこで舞台は変わり皆さんの出番となる。彼らは日本人にすべてが知られてしまうと生活と命に即関わるのであるから必死だ。ネット上の力関係はまだまだ彼らの方が強い。継続した情報発信が絶対的に必要だ。そういう意味で冒頭、参考資料として使えるようブログの保存をお願いしたのである。人類史上日本人の民度は超超レベルである。この足を引っぱっているのが中国、韓国だ。その元凶をできるだけ早く取り除き、世界平和と人類への貢献をめざして諸君には奮闘していただきたい。


『余命三年時事日記』は、日本再生と日本を日本人の手に取り戻すために始められました。これが思想を語るブログではなく、明確な目的を持った、実践的なブログであることは、このブログの読者のみなさんがご存知のことです。さらに、次の引用をご覧下さい。

余命三年時事日記 「92余命0年時事日記」 より

いよいよ皆さんの出番となった。
今年初頭から家系の隠れ持病、神経を患った。慢性神経疲労、神経障害、慢性神経疲労、狭心症で倒れ4度入院。今月は慢性神経疲労で倒れた。気がついたのは3日後、今回は視神経もダメだ。意識障害もたびたびなので今のうちにけじめのご挨拶をしておきたい。
とりあえず下書き出稿予定の記事をアップさせた。この稿は口述アップの最終稿である。
記事については半端となったが前を向いて走っていればこんな倒れ方だ。お許し願いたい。
これが自分の生き様、納得しているし、悔いはない。

…中略…

日本再生にはまだ道半ばである。日本を貶めようとしている勢力の力はまだまだ強い。皆さんのご奮闘を心からお願いするものである。

最後に皆さんとそのご家族及び日本人すべてのご健康とご多幸を祈念しつつ筆を置く。


初代余命さん、かず先生の人柄、信念と覚悟が見える文章です。闘いの道半ばで倒れられたかず先生は、私たちに「中国、韓国という元凶をできるだけ早く取り除き、世界平和と人類への貢献をめざして諸君には奮闘していただきたい。」という道を示されました。そして、その道は、代々の余命さん、余命プロジェクトチームのみなさんが受け継ぎ、より一層、力強く前へ前へと進まれています。また、私たちもその後姿に導かれて、それぞれの力に応じて余命さんをサポートし、周囲への拡散に努めています。それは国のためであり、私たち一人一人の周囲の人々のためであり、私たち一人一人の家族のためであり、そして、私たち一人一人自身のためです。

そのような余命さんと、余命ファン・サポーターのあり方に批判的な見方があります。以下に紹介します。

ぱよぱよ日記 「余命船団と余命教団」 より抜粋

真・カミカゼさん 2016年3月6日 耄碌余命爺に反日認定されました

まとめの内容

余命爺の「余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」
この文は特に気をつけて読む必要がある。
なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。
少なくても、絶対に文字通りに捉えてはいけない。
そもそも、なぜ、誰もこの文を変に思わない?ネトウヨのレベルは低すぎる。

余命三年ブログも問題をだいぶ抱えている。
そろそろ軌道修正しないと大変なことになりそう。

プロ右翼とでもいうべきか、自分の商売のためにネトウヨをやっている人に注意。
こういう人たちは日本のためより自分の財布のために活動している。釣られたら負け。

とにかく自分の頭で考えろ。
余命ブログを盲信とか、保守論客の狂信者になるとか、もってのほか。

個人用魚拓としてEvernoteはいいかもしれないが、
誰でも見れるWeb魚拓として http://archive.is/ を選択肢として考慮してほしい。


…中略…

ただ、これを見てどのように受け取るかというのは重要なわけで、この程度の内容で発狂するのであれば、余命ファンサイトを運営している自分としては危機感を抱かないといけないわけです。余命コメント欄の問題点について、以前から主張してましたし、余命ファンサイトとして最有力サイトである春、不遠。~はるとおからじ~さんの一件からしても、余命サイトの狂気(コメント欄)によって、余命が振り回されてしまったことについて警笛は鳴らしてきました。余命コメント欄の危険性を指摘している自分が反日かというのと言ってるのと一緒だと思います。少々荒っぽいけど、真・カミカゼの主張というのもね(笑)

余命三年時事日記の記事というのは、出すタイミングは考慮しているわけで、最終的に、実は・・・といった感じで帰結するパターンは少なくない。ここらへんの行間を読める余命読者が大半と思います。「バカとスパイ9:1の法則」の通り、スパイが紛れ込んでたら、そっちの声のほうが取り上げられないし、余命船団ではなく、余命教団になりかねないといった懸念は抱いてます。余命船団の航海ではなく、余命教団の後悔だと本末転倒だしなぁwwwあくまで、余命に投稿するというのは、コメント処理に手間をかけるわけで、威力業務妨害??になりかねないという一面もあるわけで、余命のコメントの処理についてコメントしている部分もあるけど、どちらかといえば、肯定的な意見より、否定的な意見を述べてる印象はあると思うのは気のせいなのかな??

巷間アラカルトシリーズで、『国家総動員の為には極左のみならず極右も切らねばならない』とは三島由紀夫の言葉も取り上げてたし、保守分断の動きについては余命も冷静に見極めてるると思います。449 警告!のエントリの意味については、各自で考えて欲しいと思います。余命教団になって欲しくないし、チャンネル桜と水島総=余命三年時事日記と余命コメントという図式になりかねない危険性も孕んでるわけで、余命ファンサイトとして取り上げるべきと思いました。


この引用中にある 「余命爺の『余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。』」は、「余命三年時事日記 『486 2016年3月3日時事』」より、引用されたものです。私としては、この余命さんの言葉に違和感を感じませんでした。党派を越えた日本再生のための実践的ブログに、政治的、党派的な争いを持ち込むのは、余命プロジェクトへの妨害にしかならず、強い言葉で振り払うのが当然だからです。私の知る限り、この余命さんの言葉を問題視して取り上げたのは、余命ファンサイトの中で『ぱよぱよ日記』だけでした。ほとんどの方が私と同じ気持ちだったのだろうと思います。

とはいえ、自らの歩む道が正しいかどうか、反省するのは必要なことです。私も、この記事を受け止め、反省し、また、この筆者さんの言い分を検証してみました。その結果として、私の歩んでいる道に誤りはなく、批判は的を射ていない、と改めて思いました。

引用中にある「不遠。~はるとおからじ~さんの一件からしても、余命サイトの狂気(コメント欄)によって、余命が振り回されてしまったこと」については、投稿者さんの文言を余命さんが誤解したことによって生じた齟齬であり、後に誤解がとけて、円満に解決しており、「狂気」という表現は全くあたりません。以前の記事でも問題にしましたが、この方はどうしてこうも、余命読者さんを侮辱するのでしょうか。この件に関わった方々は、いずれの方も自分の非は非として認め謝罪なさる、真っ当な方たちばかりです。

「ここらへんの行間を読める余命読者が大半と思います。『バカとスパイ9:1の法則』の通り、スパイが紛れ込んでたら、そっちの声のほうが取り上げられない」については、余命ブログにスパイが紛れ込んでいるのは、時折、余命さんが本稿中で誰がスパイなのか、それとなく示しておられることからも、事実でしょう。それは、余命さんが誰がスパイなのか見抜いておられるということでもあり、この筆者が心配するような事態にはならないのではないでしょうか。「余命コメント欄の問題点」は、ほとんどが、スパイ、工作員の仕掛けであると思われ、余命ブログ読者としても彼らに踊らされ、誘導され、利用されることがないよう注意が必要です。

これからも、余命ブログとその読者について、盲信、狂信などの印象操作、カルトというレッテル貼りが続くものと思いますが、自分自身の中の光を絶やさず、それが共鳴する余命さんの光を見失わなければ、惑わされることはないでしょう。

最後に次の引用をもって、この稿を終わりたいと思います。

マタイによる福音書第13章より

「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。



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