十七条憲法と余命さん

前回、「『照千一隅』と余命さん」の中で、「ぱよぱよ日記 『余命船団と余命教団』」から、真・カミカゼさんの言葉を引用し、その言葉を受け止めて、反省したとお話しました。前回、触れなかったその内容について、今回、お話したいと思います。

まずは、もう一度、真・カミカゼさんの言葉を引用します。

ぱよぱよ日記 「余命船団と余命教団」より
真・カミカゼさん 2016年3月6日 耄碌余命爺に反日認定されました

まとめの内容

余命爺の「余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」
この文は特に気をつけて読む必要がある。
なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。
少なくても、絶対に文字通りに捉えてはいけない。
そもそも、なぜ、誰もこの文を変に思わない?ネトウヨのレベルは低すぎる。

余命三年ブログも問題をだいぶ抱えている。
そろそろ軌道修正しないと大変なことになりそう。

プロ右翼とでもいうべきか、自分の商売のためにネトウヨをやっている人に注意。
こういう人たちは日本のためより自分の財布のために活動している。釣られたら負け。

とにかく自分の頭で考えろ。
余命ブログを盲信とか、保守論客の狂信者になるとか、もってのほか。

個人用魚拓としてEvernoteはいいかもしれないが、
誰でも見れるWeb魚拓として http://archive.is/ を選択肢として考慮してほしい。


…中略…

ただ、これを見てどのように受け取るかというのは重要なわけで、この程度の内容で発狂するのであれば、余命ファンサイトを運営している自分としては危機感を抱かないといけないわけです。余命コメント欄の問題点について、以前から主張してましたし、余命ファンサイトとして最有力サイトである春、不遠。~はるとおからじ~さんの一件からしても、余命サイトの狂気(コメント欄)によって、余命が振り回されてしまったことについて警笛は鳴らしてきました。余命コメント欄の危険性を指摘している自分が反日かというのと言ってるのと一緒だと思います。少々荒っぽいけど、真・カミカゼの主張というのもね(笑)


「余命三年ブログも問題をだいぶ抱かえている。」以下は、真・カミカゼさんの見解なので別に考えるとして、反省するべき言葉は、「余命爺の…この文は特に気をつけて読む必要がある。なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。少なくても、絶対に文字通り捉えてはいけない。」になります。虚心坦懐に余命さんの言葉に向き合ってみることにしましょう。

余命三年時事日記 「486 2016年3月3日時事」より抜粋

山中英雄
縄田 への返信
縄田さんへ
 小生は初代余命かず先生時代から余命ブログを拝読し、その主張に全面的に賛同しているが、最近の安倍さん万歳の記事やコメントには多少違和感がある場合がある。

…中略…

余命ブログ読者は安倍さん万歳の記事やコメントばかりでは井の中の蛙になりやすく、現実の切実な問題も知るべきではないだろうかと思いコメント投稿しているが、多少違う意見の交換は健全なブログのありかたではないかと思っています。
 しかし、~平然と無視して投稿を続けるご自身の無神経な態度を少しは省みてはいかがだろう~は、上から目線の貴殿の人格を疑う無礼な発言だね。

.....山中氏はどうも余命ブログを誤解なさっているようだ。
余命は不偏不党公平中立非営利の個人ブログであるが、そのベースは「日本人と日本国のためによかれ」というところにある。在日や反日勢力を含めての絶対普遍的な公平中立なブログではない。
 また余命は立ち上げから覚醒、拡散は事実の提示と説明に徹してきた。そこに主義主張は存在しない。「日本人に広く事実を知ってもらう」それだけを目的としてきたのである。
 したがって余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。
安倍総理がどうのこうのは余命には関係のないことだ。誰であれ日本のために頑張るものは手をつなぎ応援する。

…中略…

 山中氏については10をこえる批判記事が投稿されており、すべて削除している。すでに縄田氏の投稿の際にはこの件についてスタッフ一同で削除検討されていたのである。
 よって今後の論争を避けるため今回の投稿をもって削除対象とすることに決定したのでお知らせする。


素直に考えれば、余名さんの「したがって余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」という言葉は、問題があると言わざるをえません。これは十七条憲法の次の二つの条文に反すると思われます。

 第一条「一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。しかれども、上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。(一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。)
 
 第十条「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。(十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。)

 
いきなり十七条の憲法を出してきてなんだ、と思われたかもしれませんが、その条文は、時代を経て受け継がれ、日本人の精神の基礎を成していると思うので、それに照らして、考えたかったのです。

さて、それでは余命さんが一方的に悪いのでしょうか。第十条に「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。(自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。)」とあるので、余命さんと山中さんは、お互い様ということになります。しかし、「われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。(自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。)」とありますから、余命ブログという余命さんに賛同する人たちが集まるところでは、他の読者さんの勧告に従って投稿スタイルを変えるか、黙って立ち去るべきだったのでしょう。

山中さんの「しかし、~平然と無視して投稿を続けるご自身の無神経な態度を少しは省みてはいかがだろう~は、上から目線の貴殿の人格を疑う無礼な発言だね。」という縄田さんに対するお言葉は、第十条の「かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。(相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。)」という言葉に照らして見て、やはり道に適っていないように思われます。そういう言葉を発する心が、第一条にある「人みな党あり、また達れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。(人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。)」という状態を作り出してしまうからです。そのような山中さんのあり方が、日本再生と日本を日本人の手に取り戻すための実践プログとしての余命ブログにとって障害となるが故に、余命さんの「したがって余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」という宣告になったものと思います。この言葉を私なりに意訳すれば「ここに集う人たちと心を合わせて、日本再生と日本を日本人の手に取り戻すための実践をする気がないのなら、ここにあなたが居ることは、日本再生運動の障害でしかなく、それは反日行為と同じだ。」ということになると思います。

余命さんのブログ運営のあり方は、完全ではないにしても、決して道から外れていません。
第一条にある「上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。(皆が協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。)」を体現しつつあるのではないでしょうか。以上が余命さんの言葉に、虚心坦懐に向き合って得た結論です。

これを踏まえて、再び、真・カミカゼさんの言葉に戻ってみます。

「この文は特に気をつけて読む必要がある。なんらかの意図が含まれている可能性が高い。各自解釈しよう。少なくても、絶対に文字通りに捉えてはいけない。そもそも、なぜ、誰もこの文を変に思わない?」

確かに「なんらかの意図」は、ありました。余命ブログによる日本再生運動に障害となるものを、払い除けようという意図が。余命さんの「余名の記事に違和感を感じたり批判する方はそれだけで反日が確定する。」という言葉を、文脈から切り離して「文字通り」捉えると、カルトの教条のような意味にもなってしまいます。余命の記事に違和感を感じたり批判したりする者は殲滅すべき敵である、というような。しかし、余命ブログの読者で、余命さんの言葉をそんな風に捉えた人はいないでしょう。みなさん、文脈を読んで、余命さんの意図を汲みとっていると思います。山中さんのことを「反日」と言っているわけではなく、ただ、山中さんが余命ブログとの関わり方を変えて下さるか、関わりを持たない様にして下されば、いいだけなのです。

率直に言って、「ただ、これ(真・カミカゼさんの文章)を見てどのように受け取るかというのは重要なわけで」というぱよぱよ日記筆者さんの言葉には同意できません。何故なら、そこにあるのは「惑わし」だけだからです。私はあえて、真・カミカゼさんの言葉を受け止めて、人道に照らして、余命さんの言葉をどう受け止めるべきかを反省してみましたが、結果として、直感的に理解したことと一致しました。ならば、大多数の余命ブログ読者さんのように、真・カミカゼさんの言葉には一顧だにせず、自分の直感を信じて余命さんについていく方が賢明というものです。釣り針に自分から食いついていく必要は、ないのですから。しかし、そもそも、何故、余命ファンサイトと称する『ぱよぱよ日記』が、余命ブログ読者を釣り上げる釣り針を、仕込まなければならないのでしょうか。

然るべき時に自分に立ち返り、反省し、自分を見つめなおすことは、とても大切なことです。そして、その地点から自分の「外側」を見つめ直し、整理、評価することも。反省が正しく行われれば、周囲との調和はより発展し、深まります。それは、人の心に猜疑を吹き込み、人の和に亀裂を生じさせ、人の繋りの発展を阻害する「個人の恣意的な事物の解釈」とは真逆なものです。

ここでは、十七条憲法の一部しか紹介しませんでしたが、すべての条文が現在でも意義を失っておらず、私の心に響いてきます。もし、これまでのこの記事をお読みになって、十七条憲法のすべての条文を読んでみたいと思われるなら、「小名木善行 ねずさんの ひとりごと『いまあらためて十七条憲法を読む』」をお勧めします。



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