ダヤン氏の記事「石原慎太郎は朝鮮人である」を巡る疑惑について

■ はじめに
この記事を書くきっかけは、『まこさくmemo』に掲載されたダヤン氏に関する疑惑の記事でした。気になったのは、その中でも「石原慎太郎 vs. 五木寛之 対談」に纏わる疑惑でした。ダヤン氏がその対談に言及している記事[1]については、私も注目していました。対談が『文藝春秋』に掲載された1999年と、50代前半、おそらく53または54歳のダヤン氏が10代後半であったと推定される1978年~1984年頃とは、時期に約20年ほどのくい違いがあるからです。しかし、ダヤン氏の記事の中の、対談からの引用で、石原氏と五木氏の発言とされるものに釈然としないものを感じていた私は、ダヤン氏のその引用について、もっとよく調べた方がいいのではないかと考え、まこさくさんにそのことをお伝えしました。

[注1]伏見ブログ 【ダヤン氏寄稿】石原慎太郎は朝鮮人である
http://web.archive.org/web/20170322170954/http://blog.goo.ne.jp/duque21/e/4db28114e0bad7d797670ab1c3b942ff

その私のお便りが原因かどうかは分かりませんでしたが、『まこさくmemo』から当該記事は姿を消しました。後に、まこさくさんよりご連絡をいただき、私の言葉をご考慮くださり、記事の掲載を見合わせられたものと分かりました。この記事を出稿するにあたり、まこさくさんに事前にお知らせし、『まこさくmemo』の当該記事と当記事とを同時に公表してはどうかと、ご提案しました。『まこさくmemo』と『照千一隅』で同じテーマを扱った記事が同時に発表されたのは、そういう経緯です。

■ 対談、石原慎太郎 vs. 五木寛之
当該対談が石原慎太郎著「この日本をどうする 再生のための10の対話」に収録されていることを知り、私は、この本を入手して対談の内容を確かめました。石原慎太郎氏がお父上のことを語っておられる箇所は、以下のとおりです。

引用開始-------

五木: 若い頃あなたが第二京浜を車で猛スピードで飛ばしていたら、後ろからタクシーが追いかけて来て、運転手が「あんた運転がうまいね。」と言った。それを石原さんは、亡くなった父親が自分を諌めに来たと考える…。

石原: それは考えたんじゃないんです。

五木: 感じたわけですか。

石原: そう、感じた。「あ、そうか!あれは親父だったんだな」と。それ以来、僕はもう乱暴な運転は一切やめてしまったんです。
 そういえば、親父に関してこんなこともあった。むかし丸山という変な男が三島さんに取り入って、「あなたの後ろには二・二六事件の磯辺大尉の霊がついている」なんて吹き込んでいた。変なことを言うやつだと思って、「俺の後ろには誰がついているんだ」と聞いたら、「あ、います。あなたの後ろにはお父さんがいます」と言うんですよ。こいつ、少しは分かるのかな?と思った。(笑)

-------引用おわり

ダヤン氏の引用では、

「石原曰く、『ボクの父親が学歴な無かったけれど(実際は、小学校卒)、山下汽船の重役まで上り詰めた』五木曰く、

『学歴を超えた能力があったのですネ』。」

となっていますが、当該対談のどこにも、そのようなやりとりはありません。

■ 石原潔氏の経歴
Yourpediaから石原慎太郎氏のお父上、石原潔氏の経歴を引用させていただきます。

石原潔
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%BD%94
引用開始-------

略年譜

明治32年(1899年)

12月2日 - 愛媛県喜多郡長浜町に警察官石原信直、ササヨの三男として生まれた。幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区で過ごした。

大正2年(1913年)

- 宇和島男子尋常高等小学校卒業。旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校)中退。

大正3年(1914年)

- 店童として海運会社・山下汽船に入社

大正7年(1918年)

- 台湾支店の打狗出張所詰。

大正9年(1920年)

- 松山歩兵第22連隊に入営する。

大正11年(1922年)

- 社業に復帰する。神戸本店近海課の貨物係りとなる。

大正12年(1923年)

- 東京支店船舶係詰。

大正13年(1924年)

- 小樽支店に出張する。

大正14年(1925年)

- 樺太に出張する。以後、3回の長期樺太出張を繰り返す。

昭和3年(1928年)

- 神戸本店に復帰する。近海課配船係、配船課近海係、営業部配船課近海係などの仕事に就く。

昭和14年(1939年)

- 小樽出張所所長。

昭和17年(1942年)

- 小樽支店長(心得)。

昭和18年(1943年)

- 小樽支店長 東京支店副長 子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組・改称)に転出となり、山下汽船のほうは嘱託扱いとなった。 後に山下近海汽船常務。

昭和26年(1951年)

10月15日 - 脳溢血により死去。享年52(満51歳)。墓は神奈川県逗子市の曹洞宗海宝院にある。

…中略…

山下汽船社員として

『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31-33頁によると、「潔の山下汽船入社時の身分は「店童(てんどう)」だった。これは海運会社独特の制度で、商店でいえば 丁稚のようなものにあたり、宿舎と食事は確保してくれるかわりに、給料は一切なかった。痰壺洗い、便所掃除、社員の靴磨き、使い走りなどが仕事だった」、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ痰壺洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」という。

潔は江ノ島の料亭で仲間三人と一緒に、三日三晩会社をさぼってドンチャン騒ぎしたため樺太に飛ばされた。佐野眞一との対談の中で慎太郎は「…馬に乗った樺太の写真があります。僕のおふくろがその写真を見て、これはきっとお父さんが淋病か何かをもっていてそれで元気がないんじゃない、なんていっていた(笑)。あまりろくなことはしなかったんだ。樺太でもずいぶん他人にうつしたんじゃないか(笑)。」と述べている。[2]

潔と山下亀三郎の関係について、佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁によると、「亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている。それは、店童あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である。…(中略)…慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係があるのですか”という質問に(亀三郎さんとは)“縁戚だと聞きました。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります。”といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった。これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません。聞いたこともないし、系図にも出てきません。”と血のつながりをきっぱり否定した」という。
…中略…
脚注・出典
…中略…
2.『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 74-75頁

-------引用おわり

佐野眞一著「てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎」については、以下をご参照ください。

Amazonサイトより

引用開始-------

内容紹介

なぜ、この男の言動から目が離せないのか
「総理にしたい男No.1」慎太郎のすべてを書いた決定版評伝!

石原慎太郎は、嫌悪の感情にせよ、期待の感情にせよ、彼を見つめる者自身にもおそらく説明できない意識下の感情に、力強く、しかも間違いなくふれてくる男である。(中略)
石原慎太郎を解剖することは、彼に向けられた人びとのまなざしを検証することと、ほぼ同義である。
――(プロローグより)

…中略…

登録情報
単行本: 507ページ
出版社: 講談社 (2003/09)
言語: 日本語
ISBN-10: 4062119064
ISBN-13: 978-4062119061
発売日: 2003/09

-------引用おわり

略年譜にあるように、石原潔氏は、山下汽船の子会社、山下近海汽船の常務でした。子会社の常務になる前は、本社の神戸支店で近海課配船係、配船課近海係、営業部配船課近海係などの仕事に就かれ、その後、小樽支店長、東京支店副長を務められています。

ダヤン氏は記事の中で次のように述べています。(注は私が付けました)

「恐らく、石原の父親は山下汽船が業務上、契約していた乙仲[2]の役員に上り詰めたのでしょ。

実際の業務は、港湾労働者の人事管理。その労働者の手配で月例賃金をピンハネしたか労働者を押さえたから、役員になれたのでしょ。朝鮮人の得意ワザ。」

[注2]乙仲(おつなか)とは、海運貨物取扱業者(海貨業者)の通称である。

「乙仲」の呼び方は、戦前の海運組合法(1939年)で、定期船貨物の取次をする仲介業者を乙種仲立業(乙仲)、不定期船貨物の取次ぎをする仲介業者を甲種仲立業(甲仲)と分類していたことに由来する。

海運組合法は、1947年に廃止されたため、現在はこのような分類はないが、それまでの名残から、現在でも海貨業者のことを乙仲と呼ぶことが多い。

現在の海貨業者は、港湾荷役(輸出貨物の船積、輸入貨物の荷卸しおよび国内運送までの作業の手配)のほか、通関、はしけ運送、沿岸荷役、その他貨物の検数、鑑定、検量、倉庫業など貿易に関する荷役・通関業務を幅広く行っている。コンテナ貨物の増加などによって、乙仲業務は減少傾向にある。
Wikipedia より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E4%BB%B2

石原潔氏が、山下汽船の社員であったあったことは、Yourpediaの略年譜と佐野眞一氏の著作の抜粋から明らかで、社員としての業務も「港湾労働者の人事管理」ではありませんでした。どうも「息を吐くようにウソを吐」いているのは、ダヤン氏のようです。伏見ブログの知性担当がダヤン氏だと思っていましたが、これでは、ブロパガンダ担当の伏見氏と変わらないですね。

■ 1999年という年
ダヤン氏は、「石原慎太郎は朝鮮人である」の中で次のように記述しています。

「そして、私が10代後半の頃に読んだ文芸春秋(月間誌)の五木寛之と石原慎太郎の対談。」

文芸春秋WEB http://web.archive.org/web/20170327135838/http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/777 の中程を見ると

○同年同月同日生まれの初対談

「自力」か、「他力」か   五木寛之VS.石原慎太郎

「日蓮は石原さんみたいな人だったんじゃないかしら」
「五木さん、あなたやっぱり変な人だよ」

のように、この対談が紹介されています。文藝春秋1999年6月号に掲載されたものが、このお二方の初対談でした。対談の冒頭に五木氏が「これまで、ずいぶん対談をやってきたんだけれども、不思議なことに、石原さんとはまだ一度もちゃんと話したことがなかった」とおっしゃられていることから、そのことは間違いないのです。

ダヤン氏は、1999年頃30代だったはずであり、10代後半に未来のものであるこの対談を読めたはずがありません。また、それより以前にも、このお二方の対談は存在しません。一体、ダヤン氏はどうやって、引用元の対談を読んだのでしょうか。一つの可能性として、ダヤン氏が10代の頃の石原氏と五木氏の他の誰かとの対談からの引用かもしれません。

しかし、先程抜粋した対談の、石原氏のお父上への言及部分からも感じられるように、石原氏はお父上を敬愛しておられますし、お父上の名誉の為に、また、ご自身の名誉の為にも、お父上の経歴を詐称するようなことを公の記録の残る対談でおっしゃらないと思うのです。また、ダヤン氏は自身の記事の中で再三、虚偽を述べています。これらのことから、ダヤン氏の記事の中の対談からの引用自体が、捏造なのではないかと私は考えます。

■ ダヤン氏の記事はトラップなのか
ダヤン氏の引用が捏造ならば、何故、態々自分の10代後半とは年代の異なる時期に発表された対談を持ち出したのか、という疑問が生じます。ところで、1999年は、H氏が丁度、10代後半だった時期です。これは見逃せない「偶然」です。というのは、私は、ダヤン氏=伏見氏=H氏という仮説を立てているからです。

もし、この仮説が正しいとしたなら、いままで述べてきた事は、どのように見えるでしょうか。

「H氏は、文藝春秋で当該対談を実際に読んでいるか、または、そういう対談が掲載されたことを記憶しており、しかも、それが初対談であったことも把握していた。それで、石原慎太郎氏の記事で、トラップをしかけることにした。ダヤン氏の設定年齢とは明らかに矛盾する対談を持ち出して、態と自分と対立する人物にその矛盾をつかせるのである。しかし、実際には、その対談中に引用部分と合致するやりとりはない。そこで、石原氏の対談相手は記憶違いだったと釈明する。そうすると矛盾を指摘した人物は面目を失う。」

以上のことは、あり得ることと思われます。これならば、ダヤン氏の不可解な行動が説明されるからです。しかし、当該記事の引用が捏造であると断定するのは難しいです。たとえ、すべての石原氏の対談を調べて、その引用がなかったとしても、石原氏は、エッセイの中でそういう内容を書いているかもしれません。すべてのエッセイを調べてそういう内容がなかったとしても、まだ知られていないエッセイがあるかもしれません。「ない」ということを証明するのは、かくまでも難しいのです。逆に、「ある」ということを証明するのは、比較的簡単です。石原慎太郎氏がおっしゃったことを、対談でもエッセイでも出典を明らかにして提示すればいいのです。もし、引用元が記憶違いだったということなら、ダヤン氏には正しい引用元を明らかにするよう希望します。いずれにしても、この私の話は、現状、推測に留まらざるを得ません。

■ 最後に
以上、ダヤン氏の記事「石原慎太郎は朝鮮人である」を巡る疑惑についてお話しました。ダヤン氏の記事には、事実でないことがかなり含まれている、ということがお分かりいただけたものと思います。ダヤン氏の他の記事についても、その記事をすべて事実と受け取らないよう、注意深く読む必要があります。できれば、裏を取りながら読まれるといいと思います。しかし、そこまでする暇がなければ、読まないのが一番いい騙されない方法かもしれません。

■ 付録
石原潔氏の人柄がわかる記事がありましたので、ご紹介します。

七つの海に活躍した、山下汽船創業者 より
http://dayzi.com/a-izinyamasita.html
引用開始-------

石原慎太郎と裕次郎兄弟の父親、石原潔は山下亀三郎と同じ愛媛県南予で生れ育ちその縁あって大正3年、14歳の時に山下汽船の船童として採用される、つまり小僧として中学中退で入社し、昭和26年、51歳で死ぬまで勤めている。

 父親の潔は単なる真面目サラリーマンではなくたたきあげの凄腕、遊び人でかなりの洒落者だったようである。

 中堅社員になった潔はカッとなって大胆無謀な行動をしたため、クビになるところを亀三郎がその短慮を愛したが故にそうならずにすみ、罰として小樽支店にとばして、樺太の材木を山から伐採させて内地にピストン輸送する仕事をさせた。

 このような荒仕事は荒れくれ者たちをしごいて使わねばならず、やわな人間ではできない、潔はこれを見事にこなして汚名をそそぎ、小樽の支店長になった。

 このころから潔の生活水準はあがり、慎太郎裕次郎兄弟は瀟洒な家に住み、お坊ちゃん風に育てられ、ハイカラな幼稚園に通う。やがて昭和18年に逗子に転勤することになる。

 同郷の山下亀三郎の元(山下汽船)で重役を努め、北海道から逗子に引っ越してから、子供にヨットを買い与えるほどの余裕のある中産階級の生活だった。
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一部愛媛県生涯学習センター 人物探訪より参照
愛媛の海百景 奥南運河より
大阪商船三井船舶社内報「うなばら」から転載

-------引用おわり

[追記]
2017/04/02 付録追加。

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